2017年01月16日

第2弾 茨城県ロケ地から解る戦中事情

先日、茨城県笠間市へ作業を兼ねて伺い帰り道に映画のロケ地へ立ち寄りました
ロケ地 筑波海軍航空隊記念館
 映画撮影となった題目
 1.ALWAYS 3丁目の夕日.64(2012年)
 2.永遠の0 (2013年)
 3.ジョーカーゲーム (2015年)
 4.海賊とよばれた男 (2016年)
私も、この地で多く撮影しているとは思いませんでした!
やはりこの地で思えば、永遠の0ですね!
この地は、皆が知っている学徒出陣で招集された大学生が特攻に出陣していく地と
なった場所です。
この施設が先日案内致しました、稲敷郡阿見町にあります霞ケ浦予科練と
大きな関係があるようです
筑波海軍航空隊は、1934年に霞ケ浦海軍航空隊友部分遺隊として開設され
1938年に筑波海軍航空隊へ改称され多くの若者が訓練を行い1945年に
太平洋戦争終結と共に役割を終えたとの事です。
 建物も当時のままで歴史を感じれる所です
筑波航空隊記念館正面.jpg永遠のゼロロケ地.jpg永遠のゼロ室内ロケ現場1.jpg海軍筑波航空隊記念館1.jpg筑波航空隊記念館号令台.jpgゼロ戦ラバウル航空隊使用機体.jpg
 上記写真でゼロ戦後部胴体は戦後70年後の2014年8月に初めて一般公開されました

ここで、幾つか歴史や名称を今回の訪問で知った情報を案内します。
 前回案内致しました、霞ケ浦海軍航空基地(所在稲敷郡阿見町)は、1922年に横須賀海軍航空隊、佐世保海軍航空隊についで3番目に開隊した航空隊です
海軍航空隊操縦訓練を目的としているこの地、霞ケ浦海軍航空基地は大変大きく、現在の阿見町内の陸上自衛隊基地から現在の阿見町役場まで広大な基地でその近くには中島飛行機株式会社(現 三菱化学)があり、ゼロ戦の組み立て工場となっていた
この工場の正門からある直線の道(当時は幅18メートル)が基地までゼロ戦を移動させる誘導路となっていたようです。

※ なぜゼロ戦と命名されたのか
ゼロ戦 航続距離2200キロ 20ミリ機関砲
開発者 堀越二郎 
1939年4月に初飛行 三菱重工業に加え中島飛行機でも製造 総生産数10.430機製造
1940年正式採用となりこの年は皇記(日本の暦)2600年にあたり、その下二桁が[00]であるため(零式艦上戦闘機)名付けられたそうです。
その他で、東京医科大学病院も当時は隊員を診る基地内の病院であった事や協和発酵付近から阿見坂下までの道は、当時基地の道路として使用していたようです。
この地域には、幾つかの基地滑走路が存在することが解りました
 1.現つくば市谷田部にあります学園病院付近から食品産業技術研究機構の区画一帯が滑走路や基地施設となっていたようです
2.美浦村大山には鹿島海軍航空基地があり今でも霞ケ浦へコンクリートのスロープがあります。
3.小美玉市に現存する百里基地(旧百里原海軍航空基地)
4.潮来市大生(北浦海軍航空基地)ここでは当時赤とんぼと称した93式水上中間練習機にて離着陸旋回などの訓練の基地(現 潮来マリーナ)
5.鹿島市光 (神ノ池海軍航空基地 1944年開隊し2本の巨大滑走路と4本の小滑走路が作られ特攻訓練の基地となった
その後、住友金属株式会社となる(現新日鉄住金)
6.鉾田市大竹 鉾田陸軍飛行学校 1939年に浜松陸軍飛行学校の分校として設置された。
7.石岡市東ノ辻 石岡海軍航空基地 現 八件台付近西側に1キロの滑走路が存在した
(グーグルアースで確認すると住宅が幅広い直線が確認できます)
8.筑西市倉持 海老ヶ島海軍航空基地
9.土浦市桃園 大畑海軍航空基地(芝張り滑走路)
(土浦北インターより西に1キロ付近のショッピングセンターがあります)
10つくば市葛城根崎 葛城海軍航空基地 
(自動車研究所となっています)
11.水戸市住吉町 水戸南陸軍飛行場 1940年水戸陸軍航空通信学校 設置
(水戸南インターより6号国道をまたぎ南側へ大きな飛行場のようです)
12.ひたちなか市新光町 陸軍飛行場 1938年水戸陸軍飛行学校令により設立された。本土防空情報、レーダー要員を養成、本土防空戦闘を担う飛行場となった、終戦後は米軍の射爆場となり1973年に勝田市、那珂湊市、東海村にまたがる住民日本政府に返還となった。
13.那珂市戸 水戸北陸軍飛行場 1943年建設
(現在は那珂西部工業団地や中谷原公園、住宅地、農地になっている)
14.龍ヶ崎市貝原塚町 龍ヶ崎陸軍飛行場1944年設立
(ザゴルフクラブ付近から池田病院付近に2本の滑走路建設)
15.水戸市内原 満蒙開拓青少年義勇軍 1932年設立
(2003年内原町郷土史義勇軍資料館が開館した)
 水戸市河和田町 同分校1939年設立
(現在は石碑が有るのみ多くは農地となる)
16.水戸市鯉渕町 満蒙開拓幹部訓練所
(現在 鯉渕学園農業栄養専門学校となっています)
 まだまだ多数の施設が建設された遺跡が残されているようです
 ここでは、身近に感じ取れる主な場所を記載しました
 最後に、日立市白銀町 には日立製作所があり1945年7月26日米軍機B29から高度9000メートル上空から目視による爆弾投下が行われていた、この爆弾投下の目的は、長崎と広島へ投下された原爆ファットマンの模擬原爆投下と確認されているようです、模擬原爆でも工場や周辺に大きな被害・負傷者・犠牲者が出ていたとの記載が確認できました、本来米軍では新潟へ模擬原爆を投下する予定が天候が悪く変更して日立市上空へ投下したようです、終戦がもう少し後になっていたらと考えると茨城にも原爆投下も考えられる記述でした。 
 この情報は(茨城県の戦争遺跡)と言う著書からの抜粋です。

 
 マキロックサービス
 宮本
 私の生まれる、20年前の出来事から急速な時代変化を感じました。
 
posted by マキロックサービス at 02:58| Comment(0) | その他
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